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仮装行列に参加する神一郎(右)と弘光(右から3人目) |
昭和55年9月、学究生活を終えた上村神一郎が八幡浜精神病院に帰ってきた。この直前、神一郎はスペイン、ブラジル、アメリカなどの国を回っている。これらの国で行われていた開放的な精神科医療を見て「おやじの病院とは基本的な考え方が違うようだ、でもあのようにできるのなら患者さまにとってよいことだからぜひ日本に帰ったら挑戦しよう」と決心したらしい。この時、神一郎のなかでは変革のためのマスタープラン作りが始まった。この数年前から日本でも閉鎖から解放へと変わりつつあった。看護士の若林琢磨によると八幡浜精神病院でも「ある程度、開放化を進めていた時期だが、その反面、離院事故の多かった時期」でもあったらしい。
現在では皆、開放化して良かったと話すが、当時は離院事故の経験もあり、従業員の間でも不安も相当強かったようだ。当然、患者さまを保護することを第一に考える弘光と、患者さまを社会の一員として扱おうとする神一郎の間には、相当大きな葛藤があった。 |
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毎月のように院内では催し物が行われた(熱唱する弘光) |
神一郎は語る。「親父は患者さまを病院で保護し、できるだけ安全に事故なく暮らせるようにすることが患者さまや、そのご家族の方々の幸せにつながると考えています。私は安全であっても閉鎖された空間で暮らすのではなく、人としてできるだけ社会に出て暮らすことが患者さまの幸せにつながると考えています。この点が親父と私の異なるところです」と
弘光が過ごしてきた時代は、精神障害者を社会から隔離する時代であった。それは社会にとって異質なものを排除するという思想の具体化であった。精神科医は排除された人々を病院に収容し、少しでも人間らしく生きる手助けをすることが精一杯の時代でもあった。弘光にとっては患者さまを必要以上に社会に出すことに大きなためらいがあったのだろう。それだけに神一郎の考えは“患者さまを危険にさらす”ことに思えたのかもしれない。 |
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病棟から見た裏山(昭和40〜50年頃) |
神一郎は昭和54年にケースワーカーを設置し、訪問看護を始めるなど早くから在宅医療への取り組みを開始。昭和63年にはデイケアの先駆けとして無料でソーシャルクラブを開設したり、減床したりと、その動きは日本の精神科医療を実際の行動でリードしている一人である。
在宅支援課長の徳田美保は「理事長は個人ケア的な対応をしていました。院長は精神障害者全体をみてケアしていると思います」と語る。精神障害者を全体ではなく、病院に収容できたひとり一人を幸せにすることを考えることが精一杯だった弘光の時代から、精神障害者も社会の構成員として、社会の中での位置付けを見い出そうとする神一郎の時代へと、時代そのものが動いたのである。院長交代当時は日本の精神科医療が大きな転換点を迎えていた時代である。それだけに、この二人の信念とパワーがぶつかるのはさけることができなかった。
昭和62年1月、弘光から神一郎に院長職が譲られた。弘光を半ば押し切るような形で開放化を強力に押し進めた神一郎だが「父の話を小さい頃から聞いていて、父が理想とするものの実現を常に考えてきた」という。ともに“精神病患者さまの幸せのため”を考えていたのであり、神一郎の行動の根底には弘光の考えが脈々と流れている。 |
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クリスマス会で挨拶する弘光(昭和40年頃) |
閉鎖病棟主体から開放病棟主体へ、さらに入院主体から外来中心へと改革が進められて行く。昭和50年代までは「当時、看護職の仕事は患者さまがどこにいて、何をしているのかを常に把握しておくことが主でした。それを開放にするというのだからどのようにして患者さまを把握し続けようかと考えました。実際にはそのようなことをする必要はなかったわけです」と上田は語る。当時のことを知る職員は口を揃えて「この時に病院は大きく変わった」という。
それまでのやり方とは基本的な考え方が異なるだけに、当時の職員が神一郎の考えを理解できなかったとしても無理はない。しかし、職員が神一郎の考えを理解しなければ開放化は進まない。そこで神一郎は職員の若返りを図ることとした。当時八幡浜精神病院には看護基準を維持するために定年後も働き続ける看護婦さんの姿も多かった。その人達は古い価値基準のもとで働いていたし、その基準を変えることはできそうにもなかった。開放化することを理解できない職員の退職を促すとともに、若い職員たちには5年くらいかけて意識改革を徹底させようとした。
そのため看護基準は3類から無類へと下がり、経営的にはたいへん苦しくなった。「でも収入をあきらめてでも改革は押し進めなければならないという使命感がありました」と神一郎は当時を振り返って語っている。 |
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閉鎖病棟が主体の頃の病院
この建物は改造され現存する |
閉鎖から開放へと進んだ当初はさまざまなトラブルが発生した。開放化で外出した患者さまが町中を歩いているのを見た非番の職員はすぐに病院に電話を入れ「離院した患者さまが歩いている」と報告があったことも一度や二度ではない。町の商店からも病院に苦情が舞込んできた。「おたくの患者さまがきちんとお金を払ってくれない」というのである。その店にかけつけてみると、困り果てた店の方と怒っている患者さまの姿があった。訳を聞いてみると「1000円でおつりがくると思って買ったら、4000円も請求された」ことが原因だった。数十年間病院だけで暮らしてきた患者さまにとって想像以上に物価が高くなっていたのである。
病院の近所からも苦情がきた。「患者さまたちが鯨橋のところで集まってタバコを吸っている。何をしようとしているんだろう薄気味悪くて恐い」というのである。行ってみると集まっている患者さまたちはとくに何かをしようとしていたのではなかった。むしろ、何をしていいのか、どこに行っていいのかわからなかったので鯨橋のところでタバコを吸っていたら、他の患者さまも集まってきただけなのである。
このように当初は患者さまも職員も“開放”されたことにとまどいを感じていた。しかし、時がたつにつれトラブルも急速に少なくなっていった。
また、病棟が開放化されたということは、入院患者さまが自由に外に出られるだけでなく、お見舞いに来た方々が自由に病棟に入れるということでもある。現在のくじら病院には普通の精神病院にあるはずの面会室がない。これは他科の病院と同じようにベッドサイドで面会すればいいという神一郎の考えにもとづくものである。面会室を廃止することによって、職員の監視の目がなくなりリラックスできると患者さまや御家族の方々には好評だし、職員側の負担も減った。
“開放”に懐疑的だった人々はこのような状況を見て「とても不思議だった」と口を揃える。そして何よりも精神科医療が変わったことを実感した。 |
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