 |


 |
 |
 |

運動会で往診用のバイクを利用し仮装行列 |
弘光は往診に積極的だった。往診は精神鑑定であり、保健所の衛生課の方と同行した。措置に該当する患者さまを診察し、そのまま同伴収容したり、宇和島、大洲、双岩の各精神病院に収容してもらった。当時は道路事情も悪く夜晝峠をオートバイで大洲まで鑑定に行くと砂煙りで顔が真っ白になったという。
患者さまはどの方も重症で多彩な病像を呈しており勉強にもなったようだ。弘光が鑑定医として診察した患者さまの数は愛媛県下でも1〜2位に該当するぐらい多かった。そのことから後年、広島で行われた精神衛生大会で厚生大臣表彰を受けている。
昭和30年代から40年代には、往診に行くと患者さまは「入院させられるのは嫌だ」と逃げ回った。「田んぼの中を走って追いかけたことも一度や二度」ではなかった。時には患者さまが泥を投げてくることもあった。なかには「鎌で斬りつけてくる患者さまもいました。患者さまのいる家ではまるで恐いものでも扱うかのようにして、かんぬきを掛けた部屋に閉じ込めていたりしたのでよけいに暴れたのでしょうね」と往診に何度も同行した丸山が語る。 |
|
 |
 |
 |
 |
 |

新築中のブロック製造作業所 |
作業療法や社会復帰といえば、最近の言葉のように聞こえるが、弘光が院長の時代にも積極的に進めていた。ただ、時代背景が異なるだけに現在のものとは比べようがないのも事実である。
開院後は、作業療法として農作業や養鶏などを行っていたが、昭和45年頃には建築用ブロック製造を行うようになる。手回し式のコンクリートミキサーを購入しブロックを作った。市価の3〜4割安く販売したので、人気があり工務店などが買いに来たという。
市内の企業へ出向き、作業を行う風景も見られた。「車の解体業者や建築関係の会社、クリーニング屋などへは毎朝、病院まで迎えにきてもらって働きに出ていくようになっていた」という。
ブロックを買いに来た業者さんや、作業のために患者さまを受入れている企業の中から、患者さまが退院すれば、従業員として雇っても良いというところも出てきた。実際に退院して、設備業者に就職したり、大工や左官で見習いとして働く元患者さまもいた。
外での作業は患者さまにとって、外出できる唯一のチャンスでもあった。そのため希望者が多く人選に困ったという。“精神病患者は一生入院”もあたりまえのような時代に、社会復帰につながる作業療法を実施していた弘光。現在、くじら病院で、大胆な社会復帰施策を神一郎が行なっている下地は、このあたりにあるのかも知れない。 |
|
 |
 |
 |
 |
 |

塀の上に有刺鉄線が見える |
入院患者さまは「すきがあれば病院から出ていこうとしていました」と当時の様子を振り返る丸山トクヨ。病室にカギをかけ、窓に鉄格子をはめるだけでなく、塀の上には有刺鉄線を張り巡らし、離院を防いでいた。
ところが離院を防ぎ、病院内に閉じ込めようとすればするほど患者さまは何とか出ていこうと努力したようだ。なかでも汲み取り式トイレは汲み取った直後の便槽が空になっており逃げ出しやすかったという。窓の鉄格子を時間をかけて2〜3本切り、そこから3名ほどの同室者を連れて出ていった患者さまもいた。昭和51年には新病棟鉄格子の設計ミスから集団離院事故が発生した。7名の患者さまが一度に離院したのである。連れ戻すために名古屋、大阪、泉佐野、岡山、宇和島と職員が駆け回った。この時のことを弘光は「警察に保護された方もおり、離院し県外にまで出ていった患者さまを収容するのは大変でした。看護団の方々には大変な苦労をかけたと思います。長い日数をかけて全員収容し、県の衛生課に報告した時は正直ホッとしました」と当時を振り返る。
神一郎が着任して、病棟の開放化を押し進めようとすると、反対の声があがった。ところが開放病棟になって、逆に離院事故がなくなり、驚いたスタッフが多かったようだ。前出の丸山も「開放化すれば患者さまが逃げて帰ると思っていました。ところがそんなことはまったくない。不思議でした」と当時を振り返る。
この後、精神病患者さまを閉鎖病棟で管理し保護する時代から、開放し社会の一員として生きてゆけるように援助する時代へと急速に変わってゆく。 |
|
 |
 |
 |
 |
 |

作業用農園で幼稚園児と芋掘りをする弘光 |
自殺を防ぐことも重要だった。首吊をするといけないからと、ひもやベルトは患者さまに渡さなかった。ズボンは前のベルト通し2つを短いひもでひっぱりずれない様に工夫した。女性の命とも言われる鏡も、凶器になるからと渡さなかった。生活必需品であるタオルにはそれぞれ名前を書き、夜になると職員が集めて回った。
このようにして、悪いかもしれないと考えられることは徹底して排除していった。それが当時の考え方だった。
喫煙を制限することも普通だった。徳田美穂によると「就職した頃は患者さまにたばこを1日5本配給していました。作業に出れば2〜3本追加支給されたようです」と話す。喫煙により火災が発生するといけないからというのがその理由だった。
神一郎は「たばこを個人に持たせよう」とした。スタッフからは出火を懸念する声が強く出されたし、たばこ1箱を手にした患者さまは、1日に1箱吸わなければならないと思い込み、夜間に吸い溜めする人もいた。このような状況も1週間くらいでおさまった。懸念されたような事故は起こらなかった。現在は女性患者さまには鏡だけでなく化粧品も渡している。みだしなみを整えることができて、表情も生き生きとしている。
このようにして、スタッフも開放することの良さを実感していった。そして、それまでは管理する者とされる者であった人々が同じ人間として対等に接するようになってくるのである。そこにはもう絶望もなければ規制もない。あるのは退院への希望であり、社会復帰への努力である。 |
|
 |
 |
|
© Copyright 2005 Kujira Group, All rights reserved.
|