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病院の地鎮祭 |
弘光が病院建設を考えたのは、敗戦の混乱からやっと立ち直り、「もはや戦後ではない」という言葉も出てくるなど、生活水準が戦前を超えて伸びていった頃である。日本の医療を改善するため医療公庫制度が創設された直後でもあった。弘光にとっては実にタイミングが良かった。
病院開設にあたって、資金面での問題が解決すると、次は役所への開設の許可・届け出等をしなければならない。この面でも弘光は恵まれていた。柔道を続けていた関係で警察を含め、役所関係者に知人が多かったのである。
希望に燃えて建設した八幡浜精神病院がオープンする。弘光の信念にそった精神科医療を実践する場ができるのである。弘光には大きな希望があった、そして日本全体も“拡大・発展”を目指して希望に燃えていた時代でもあった。 |
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反対運動を伝える新聞 |
病院新設にあたって数ヵ所を下見し、通称“くじら地区”と呼ばれた五反田地区に決めた。しかし周辺住民からは歓迎されたわけではない。地元の人々を説得するために出向いた弘光に対し「いくら精神病患者さまは害をおよぼさないと言われても信用できない。人を噛まないと言われる犬でも時には人を噛むこともある。それといっしょだ」と言われたこともあった。
八幡浜市農業委員会と地元の反対派の人々に対し当初、弘光は一人で説得にあたったが聞き入れられなかった。意見陳述会に出席し理解を求めたたり、県庁の医務課長を訪問、打開策を「懇願」したりもした。しかし、反対運動は根強く新聞に掲載されることもあった。
方塞がりで苦悩していた弘光は義兄から人を紹介され、事態の打開方法についてアドバイスを得た。それから1ヶ月後の昭和36年10月に農地転用が認められ、病院開設許可が下りたのである。弘光はもとより、応援していただいた方々が“ホッ”としたのは言うまでもない。 |
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当時の慰安旅行の写真 |
昭和37年6月15日、八幡浜市五反田の谷あいに定床28床の“八幡浜精神病院”が誕生した。精神科の単科病院の名称に『〜精神病院』とつけるのは当時、愛媛県での流行だったようである。開設後も道幅は相変わらず狭く、踏切から病院まで患者さまをおんぶして入院させたこともあった。医師は弘光ひとりで、スタッフは看護師が4名、看護人と呼ばれた看護補助の男性職員が3名だった。そこに36〜37名の患者さまが入院していた。開院と同時に看護婦として就職した丸山トクヨは「1階が女性、2階が男性患者さまと分けていました。家庭的な雰囲気の病院で、その後ベッド数が増え、職員や患者さまが増えてもそんな雰囲気だけは損なわれなかったように思います」と語っている。 |
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昭和43年頃の増改築風景 |
開設1年後の昭和38年3月には精神衛生法にもとづく愛媛県の指定病院になるとともに、病床数を一挙に105床に増床した。また、この年に基準看護3類の承認を得て看護体制も徐々に充実してきた。
増床に際して、それまで付き合いのあった銀行に資金の借り入れを申し込むと「とんでもない、増床しても経営的に成り立たない」と断わられた。弘光は患者さまも増え、100床持っていても充分だと判断したのだが、銀行の目にはそうは映らなかったようだ。4倍近くに増床するのである。建物の建設費だけでなく、経費は毎日出てゆくものの保険が支払われるのは3ヶ月またなければならない、当然その3ヶ月間の運転資金も4倍になる。
貸してくれない以上、無闇に突っ走るわけにもゆかない。くやしい思いをしていた弘光に、第一期工事を担当した西南土建の西園寺社長から明るい知らせが舞込んだ。「知り合いの銀行支店長さんがいるから紹介しよう」というのである。取り引きもなく、はじめて行く銀行だったが、紹介された支店長さんに弘光は自分の思いを含めさまざまな状況や自らの計画を語った。その言葉を聞いて支店長さんの口から「融資しましょう」という言葉が出た。その銀行とは今も変わらぬ信頼関係が続いている。 |
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病院にあった柔道場で模範演技をする
弘光と神一郎 |
弘光は宇和島時代の昭和32年5月には四国柔道選手権大会に大将として出場している。この時3戦3勝で愛媛県を優勝に導いた。当時の監督で、元八西柔道会会長の清水宗章はこのときの様子を「3人ともコロンところがして、ちゃっちゃと押さえてしもうた」と弘光の強さを語る。
八幡浜に来ると警察署横にあった武徳殿に通い柔道を続けた。さらに八幡浜高校では「校外指導の先生」として生徒達に柔道を教えた。その頃の柔道部員、梶田壮一は「人の意見を聞いてから回答してくれました。決して上から押さえ付けるような言い方はされない先生でした」と語る。
梶田の後輩で今は近畿管区警察学校で柔道を教えている谷野友孝は「先生は毎日高校に来ていました。理論的な柔道で、私達には順序立てて教えてくれました」と語る。会う人は皆、弘光のことを「理論的だが謙虚で優しい人」だという。谷野と神一郎は小学校の頃から武徳殿に通っており、八幡浜高校でも同期で活躍した。谷野に弘光と神一郎の柔道の違いを聞くと「理事長(弘光)はとにかく理論的で寝技が得意でしたが、院長(神一郎)は常に積極的に攻めてゆくタイプで大外狩りや内股が得意」だという。
相手を良く研究し、分析したうえでじっくりと取り組む弘光に対し、積極的に前に出ていく神一郎の柔道は正反対に見える面もある。しかし、相手にあわせ理にかなった対応をするという点では二人とも同じである。一人ひとりを見て、じっくりと取り組む弘光と積極的に力技で攻める神一郎、ふたりの柔道の違いと共通点ははそのまま病院経営の違いと共通点としてあらわれている。
八幡浜高校柔道部、ここを拠点に二人は多くの人々と知り合い友人となった。その関係がより地域に密着させることとなり、病院の応援団を増やすことにつながっている。
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