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学生時代の弘光
九州高等医学専門学校の
研究室にて |
弘光は、人に当時人気だった整形外科を選ばず、精神科を選んだ理由を「ブキッチョだから整形外科は俺の性に合わんから精神科にした」と言う。しかし、それは彼の照れ隠しかもしれない。
昭和41年から勤務している看護師の若林琢磨は「自らもよく勉強する人でしたし、従業員にも論文発表を奨励するなど、とにかく勉強熱心な人だという印象を持っています」と話す。後年、院内でケース発表会を行った時、車椅子に乗って出席している弘光の姿が会場にあった。その様子は、大変楽しそうだったという。
このような弘光が精神科医局を選んだ理由は医局員が多く満足に指導を受けられない整形外科より「教授の指導がみっちり受けられる精神科にした」というのが勉強好きな彼の本音だったのではないだろうか。
さらに、弘光が打ち込んできた柔道部の部長が精神科の王丸勇教授であった。病気で苦しみながら、世間や時には家族からも見放された精神障害者がおかれている状況を他の学生よりも知っていただろう。彼は「とてもおだやかで、物腰のやわらかい人」だという。きっと心優しい人なのだろう。だったら精神科医となって精神障害者を助けたいと思っていたとしても不思議ではない。 |
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王丸勇教授
弘光の恩師であり精神科医療の先駆者 |
上村弘光が九州高等医学専門学校(現在の久留米医科大学)を卒業したのは敗戦の色が濃くなり物資の不足も目立ってきた昭和19年9月である。卒業後はすぐに陸軍に入隊、陸軍病院で3ヶ月間、軍医としての研修を受けたあと、中国戦線(中支)の部隊に配属された。
昭和21年3月に復員すると精神科の王丸勇教授のもとで勉強を続けることに決めた。当時の国立大学には神経科はあっても精神科の無いところもあった。九医では昭和5年に王丸教授が精神科を開講、医局員は5〜6名だったがベッドは常に満床で、ここを巣立った医師が民間精神医療の未開拓地をうめていった。
弘光は復員1ヶ月後の昭和21年4月に入局「医局に欠員があり2〜3名の医局員しかいなかったのですぐに入局できた。医局員なら月給がもらえてとても助かった。もし、医局員が足りており、無給ということになると経済的な理由から入局できなかったと思う」と語っている。
弘光は学生時代、柔道の全国的な大会で何度も優勝しており、その活躍ぶりが新聞で紹介されるほどであった。それほど打ち込んでいた柔道部の部長である王丸教授のもとで勉強を続ける事になったのは、ある意味で当然のことでもあった。 |
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宇和島時代の
家族写真 |
福岡で、精神科医として研鑽を重ねていた時、弘光に大学の柔道の先輩である渡部欣一郎先生が「副院長として病院を手伝ってほしい」と声をかけてきた。
渡部先生は、卒業後松山精神病院で勤務していたが宇和島で開業することになったのである。そこで柔道部の先輩と後輩の間柄で、気心も知れている弘光を副院長にしたいと考えたのだろう。渡部先生にすれば、弘光になら遠慮なく指示できるので、病院運営もやりやすいと考えたのかも知れない。
そんな関係で弘光は宇和島に来ることになり、妻と子供達を連れ、昭和29年8月に宇和島精神病院副院長として着任した。赴任後は副院長としての職務を全うするだけでなく、先輩の期待に応えさまざまな方面で活躍した。このように精力的に仕事をこなすかたわら、柔道も続けており愛媛県大会や四国柔道大会などにも出場し優勝している。 |
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双岩に開業した診療所跡 |
宇和島で副院長としての生活を続けるうち、弘光のなかに「自ら開業したい」という気持ちが強まってきた。そこで、開業に適した場所を探し始めた。愛媛県で開業しようという気持ちが強く、候補地として検討した場所はすべて愛媛県内であったらしい。
候補地選びは、既存の精神病院が近くになく病院を作ることによって、一人でも多くの患者さまやその御家族の方々を救うことができる場所を探した。
数カ所の候補地を検討した結果、卯之町と八幡浜が残った。当時、松山と大洲、宇和島にしか精神病院がなく、卯之町と八幡浜はその中間にあるからだ。
どちらにしようかと迷っていたところ、宇和町で開業していた九医時代の級友、宇都宮万丈先生の紹介で「八幡浜の双岩に空いた診療所がある」との情報がもたらされた。 |
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珍しい雪の双岩で子供達と記念写真 |
双岩の空いた診療所を見て「ここでならやれそうだ」と弘光は開業を決意した。当時、この診療所が廃業していたことで双岩地区は無医村となっていた。双岩地区で開業するとなると精神科だけでなく、「何でも診てくれるお医者さん」にならなければならない。そこで、内科をはじめ他科の勉強を始め、地域の要望に応えられるよう努力した。 |
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診療所玄関にて |
開業にあたっては、診療科目を精神科・神経科・内科とした。精神科の印象が現在よりもさらに悪かった時代ではあるが、大学医局で3年、宇和島で4年余の臨床経験で精神科診療に自信を抱いたのであろう。昭和34年1月7日に1階を外来診察室、2階を19床の病室とした上村医院が開業した。
診療所はにぎわった、30畳ほどある2階には精神科の患者さまを入院させるとともに、1階で外来診療を行った。妻の久子によると「精神科よりも内科の患者さまの方が多かった」という。この診療所は地域の人々にとって交流の場でもあったらしい。勤務している看護師が遊びに来た子供たちにギターを教える光景を目にすることもあった。診療所全体が地域にとけ込んでいたのであろう。
往診にも積極的だった弘光はこの頃から「困っている人がいて求められればどこまででも行く」と飛び回っていたという。この姿勢は病院を開き、理事長・院長として病院を大きくした後まで変わることがなく「困った人が求めてきたらいつでもどこでも行く」という姿勢を貫き通した。 |
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